令和座第8回公演『∞』劇評
『並んだ穴は入口か出口か、それとも鎖か』
丘田ミイ子
玄関だと思っていた扉は勝手口であった。祖母の家のことである。私がその勝手口を家の入口だと長らく思い込んでいた理由は、身内である自分をはじめ、祖母をよく知る人々がみんなその勝手口を常用して家に出入りしていたから。そして、何よりも祖母自身がそこから人々を迎え、見送っていたからだった。祖母の死後、空き家となったその家の建て壊しが決まり、祖母を知らぬ業者の人々が訪ねてきた。
「どこから入ったらいいか分からなくて」
内一人がその時に言った言葉を思い出していた。
6月に東演パラータで上演された令和座『∞』。その物語の舞台は廃墟であった。まず特筆すべきは空間づくりの追求である。鬱蒼とした植物や鉄格子、乱立した配管のようなものがステージを取り囲み、辺りにはドラム缶や瓶ビールのケースが点在している。全てのものが所在なさげに転がっており、一目で廃墟であることが分かる。というよりむしろ、廃墟に迷い込んでしまった感覚が近い。そのくらいスリリングな空間に仕上がっていた。そこに、同じく迷い込んだのか、あるいは意思を持ってやってきたのか、リュックを背負った青年が現れるところから物語は始まる。かつてエントランスであった場所の名残りだろうか、石段の小上がりを二段ほど上がったところに穴がある。その下の方から助けを求める男の声がし、青年はリュックからロープを出して助けようとするが、その途中で現れた廃墟の所有者を名乗る男が青年を不審者として追い出してしまう。素性の分からない男の叫び声、青年が予めロープを所持していたこと、所有者の異常に高圧的な態度。その全てに不穏さを感じつつ、廃墟ではその不穏をさらに上塗りするような不可解な出来事が次々と起こっていく。所有者とはまた別の管理者を名乗る男によって麻袋に入れられて誘拐されてくる女がおり、かと思ったら、その廃墟で暮らしているという姉妹の方が立場が強く、誘拐された女と姉妹による謎のティーパーティーが繰り広げられたりする。さらには仙人のような老人が現れ、最後には穴に落ちた男もついぞ現れ、姉妹が実は他人であることが暴かれ、奇妙奇天烈なまま物語は終わっていく。
ロープに鉄パイプに包丁、そして様々な用途で使用される鎖。物騒な小道具が次々と現れ、全ての人物に犯罪や事件の香りや気配が染みついており、一体今ここで何が起こっているのか、そもそもここは一体どこなのか、まるで見えてこない。何より感情移入できる人物が、共感できる言葉が舞台上に見つからないことに私は強いストレスと疲労感を覚えていた。そして、そのストレスの中に自分の傲慢さを見つけたのだった。私は知らず知らずの内に演劇に制限を、いわば鎖をかけていた。自分が感情移入できたり、共感できる人物、愛したり、慈しんだりできる物語しか家の中には入れない。自分の中には入れないと。しかし、沈黙すらもバイオレンスなこの演劇の会話、人物たちはどこからともなく私の中へと入ってきてしまった。どうやって鎖を解いたのかは分からないが、それこそ入口も出口も明確でない廃墟に侵入していくのと同じように私の中へと入って、心を圧迫し、掻き乱してくる。そうして、もう限界となった瞬間にそこから立ち去ったのは、客席に座った私ではなく、登場人物たちの方なのであった。
「どこへ…?」
「わからない」
「え……こっちにみんな行きましたよ」
「そう…」
「そっちは出口じゃないかもしれません」
「出口……(笑)」
「え…何か…?」
「バカみたい」
そう言って、客席をすり抜けて登場人物たちは廃墟を後にする。
廃墟に入口や出口は存在しないのだろうか。そもそもその定義は何なのだろう。人の存在、その出入りによって定義されるものだとしたら、やはり廃墟にそれらはないとも言えるし、どこもかしこもがそれらであるとも言える。入口も出口もぼんやりとした廃墟とそこに出入りする人々を見つめた90分間はむしろ私こそが穴に落ちた男のような心持ちだった。入口や出口が見当たらないというよりも塞がれていたのだ。そこから抜け出すには、やはり男と同様にロープや鎖が落ちてくるのを待つほかない。いつからか、私は男に自分を重ねていた。感情移入できる人物が、共感できる言葉が舞台上に見つからないことに強いストレスと疲労感を覚えていたはずなのに。それらから解放されてからやっと私はそのことに気づいたのだった。
ついぞ最後までどう呼ぶのが正解か分からぬまま、公演タイトル『∞』を指でなぞる。数学記号では無限大、英語だとinfinity、また「制限や制約を受けない」という意味のunlimitedと呼ばれることもあるらしい。どれだろうか。どれでもないのだろうか。分からないけれど、こうして改めて眺めていると、並んだ二つの穴のように見えなくもない。どちらが玄関で勝手口だろう。入口で出口だろうか。それもまた分からない。確かなことは、それらが繋がっている、ということだけだ。見方を少し変えると、立体的な一つの穴のようにすら見えてくるし、千切れた鎖のようにも見えてきた。劇場の入口に向かって去っていった登場人物たちがこれからどこへ行き、どう暮らすのかは分からない。しかし、劇場入口が時に廃墟の出口となるように、心のどこから何が入り、何が出ていくかは未知であり、それぞれの主観に従う他ないのだと思う。私の物語では紛れもない玄関だった祖母の家の勝手口を「分からない」人が当然ながらいる様に。それはそのまま物語や演劇にも置換できる。どこが入口で、出口で、前か後ろか。その制約はないはずだし、自らかけた鎖を千切ることだってできる。