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令和座第8回公演『∞』劇評

公社流体力学

令和座の本公演初めてを見たときに、私は興奮と同時に大きな敗北を感じた。ボロ負けだ。
私は一時期ラヴ・ディアス※という映画監督の影響を大きく受け、長い沈黙を使ったスローテンポな作品を作ろうと苦心をした。
(※ラヴ・ディアス)
映画監督。フィリピンの怪物と言われ『立ち去った女』でヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞受賞。アジアンスローシネマの中心人物であり、ベルリン国際映画祭でアルフレッドバウアー賞を受賞した『痛ましき謎への子守唄』は8時間9分の大作で独自の時間の流れで歴史や政治、幻想が入り乱れる。

しかし、ただ遅くすればいいだけではなく低速に合わせたテンポを身についていなければ、ただの会話下手クソになる。それに加え普通の戯曲をただスローにしただけでは退屈であり、スローに耐えうる強度とこの速度である説得力を持つ内容に仕上げなければいけない。当時の私はそれが作れず理想には手が届かず断念をした。
その理想が私ではない他人によって目の前で完璧な姿で上演されている。それが喜ばしいことでもあると同時に、大きな敗北でもあった。

それ以来スロー演劇の天才と思っていたが、今作『∞』は全く見たことない未知の領域であり、あれは一体何だったのかという思いにとらわれている。しかし、それでもゆるぎないのが今作がそれまでの令和座と同じように、そしてそれ以上の時間芸術であるということだ。

1 時間芸術って何ぞや

演劇は空間芸術であるというのは私の持論である。
コンテンポラリーダンスやインスターレーション的な舞台美術でのパフォーマンスが空間芸術として思いつきやすいが、もう一つ、一つの空間で時間を共有するという意味での空間芸術もある。それこそ時間芸術である。
ではすべての演劇が空間芸術なのかというとそれは違う。
演劇というのは、客席と舞台で別れている。だからこそ目の前で何が起きてもそれは舞台の中で完結しており観客は安心して目の前の物語を受け身で享受できるのである。
しかし、令和座は沈黙を使った演出が特徴である。情報や物語を迅速に伝えることよりも、沈黙することにって次の言葉が出てくるまで観客を待たせることを優先している。これによって、観客がいまこの場所で流れている時間を体感する。
いま何が起きてるのか次に何が起きるのか。舞台を見るうちに観客は観察者となる。役者の呼吸、体の震え、まばたき。普段なら目に入らない微細な部分に目を向けることを促される。それが没入感を与え、まるで劇中の時間が現実の時間と一致するかのような錯覚を与える。時間が客席に接続されて舞台と客席という垣根を破壊した統一の時間芸術を作り出す。
ならば、それは静謐な現代口語演劇などスローな演劇全般に言えるのではないか。それはNOだ。ただスローなだけでは舞台と客席の溝を破壊することはできない。
令和座がスローな演劇から時間芸術に昇華しているもう一つの要因こそ、戯曲である。
令和座の戯曲はそれがシリアスに転ぶかコメディに転ぶか予測不能である。また、『大麻を吸おうよ』のようにオチを見ても最終的にシリアスだったのかコメディだったのか何だったんだろうという作品もある。
あるのは、いま目の前で異常な出来事が起きていた。その時間を共有したということである。
沈黙の後のセリフが何をいうか一切の予想を拒絶する。物語を追うのではなく目の前の現象を見守るほかない。
予測できない展開はエンタメの基本だが、そのスピード感で観客を連れいくのではなく、同じ時間を共に過ごすことで未知の芸術へ昇華しているのである。
そしてそれをさらに上の道に押し上げたのが『∞』

2.『∞』

『∞』という作品は、とある廃墟を舞台にした群像劇のスタイルである。登場人物が出入りを続ける。
物語は廃墟を訪れた青年が穴か聞こえる声の主を穴から出しあげようとするところから始まる。彼が主人公と思いきや、あっさり青年は廃墟の持ち主に追い出され穴の声も存在しなかったように急に沈黙する。その後、廃墟の管理人が現れ誘拐した女を廃墟で襲おうとしたら、廃墟に住む姉妹が女を救う。
ではこの姉妹が主人公かと思うと女と姉妹はお茶会を始めつかみどころのない会話が続く。
これの物語は一体どこだ。
ジャンルで言えば不条理劇に位置するモノであるが、決して物語性を拒否しているわけではない。何かの流れはあるがそれが観客には見当がつかない。迷路に迷い込んだような時間が続く。
これまでの令和座も終着地点がわからないのが魅力だったが、物語自体は今どう進んでいるのかは追うことはできた。それが今回は、そもそも物語どころか主役が誰なのかすら分からない。
観察者たる観客は一瞬一瞬の時間に目を向け、シーンの中に内在する細やかな情緒や意味を掘り下げる。しかしそれでも掴みどころがなく自分が一体どこまで連れていかれるのか分からなくなる。目隠しされて拉致されてるかのように、登場人物のリアルタイムが何とか理解しようとするリアルタイムと接続される。
令和座の中で最も時間芸術としての強度が高い。

しかし、デウスエクスマキナ(物語を強制的に終わらせるためのキャラクター)として穴の中にいた人間が登場しこの物語を解体する。伏線を回収し、ナンセンスな物語がサスペンスへと展開され真っ当なカタストロフィ。
この瞬間時間芸術から普通の演劇へと展開され舞台と客席の間に溝ができる。悪いことか?いや、むしろだからこそこのカタストロフィが力を増す。
タメが長いので炸裂したというのはあるけれども、明確に一体化した空間の切り離しは物語だけでなく空間の解体も行ったということ。
明確に演出もテンポを変え、観客が今までいた空間を変容させる。観客は置いて行かれ劇の登場人物は退場していく。舞台に人物が残されたように我々も令和座に置いてけぼりにされる。
幕引き役がきれいに伏線回収して終わらせる。よくある展開だが、この『∞』という作品は他の作品が到達できない地にある。何故なら、
物語で突き放すだけでなく空間ごと観客を突き放すのだから。
時間芸術を手放すことで起こるカタストロフィ。
これこそ、時間芸術を作り出せる令和座でしか作れない衝撃。次は如何なる時間を共有してくれるのか。

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